どーせ死ぬなら

みんなでせーので死にたい。そしたらだれも悲しまない。おててつないで飛び降りよーね。死後の世界とか、魂がどうとか、そんなん誰が考えたんだろー。燃やされて埋められて土に還って、それで終わりでしょって思っちゃう。これだけいろんなものが発展した時代で、未だにあの世だのこの世だのが広く信じられているの、不思議だな。

でも自分の大事なひとが亡くなったときは、まだどこかでって思いたくなるのかもしれない、自分のことはともかく。人間やさしいね。
まあ周りの人間が悲しんでくれるうちは死ねないな。や、大事に思ってくれるひとがたくさんいるうちに死んじゃいたいとも思うけど。わたしのために泣いてくれる人がどのくらいいるのか、ワクワクしないと言ったらウソになる。死んじゃったらその場面見れないから残念。みんながわたしのために泣いてるとこ見たいから魂の存在とか信じてみたくなるね。そゆこと?

世の中のこと、例えば新しい紙幣のデザインとか、例えば新しい元号とか、そんなデカいことじゃなくたって、文句言ったって自分が変えられることなんて何ひとつなくて、だから自分のことくらいは自分で決めたくて、だから死に方くらい自分で決めたい。みんなせーので死ねないなら、理想の死に方は好きな人に殺されて死ぬこと。記憶が薄れていってしまうの、さみしいけど当然で、でも健常な人間なら、殺した人のことがいちばん薄れないで心に残る、たぶん。思い出なんてぜんぶ忘れちゃっていいから、罪悪感と一緒にわたしの存在だけ忘れないでいてくれたらいいな。

世界の終わり、またはわたしの終わり、待ちきれない。

ま、いざとなったら死ぬのこわい死にたくないって泣きわめくんだろーな。愚かなファッションメンヘラちゃん。しょーもなくてウケる。
でも死にたいのも死にたくないのもどっちもほんとだよ、ほんとのほんとに嘘じゃない。人間に一貫性を求めるなって、前も言ったけど。


不謹慎ブログ。短いけど終わり。